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Couch Potato

旅行・バレーボール・映画などなど、日々のあれこれについて綴るブログです。

栗原恵 女子バレー元全日本エースの歩み

かつて女子バレーのアイドル的エースとして日本中の注目を浴びた栗原恵選手。

何度も怪我に悩まされながらも、その度に乗り越え、今も現役でバレーボールを続けています。

 

鮮烈なデビュー

栗原選手が最初に注目を浴びたのは春高バレー

初めての春高では1年生ながらエースポジションを任され、見事春高優勝。

そして2年生になった栗原選手は三田尻女子のキャプテンとして決勝に進み、大山加奈キャプテン、荒木絵里香選手、大山未希選手(加奈の妹)らを擁するスター軍団、成徳学園と死闘を演じました。

結果は成徳学園の優勝、三田尻は準優勝に終わったものの、「西の栗原、東の大山」の2人のエースの壮絶な打ち合いは今も日本バレー史上に残る伝説として語り継がれています。

そして2003年に行われたワールドカップで大山選手と共に「メグカナ」コンビとして一世を風靡します。

 

2000年のシドニー五輪出場を逃し、前年の2002年に行われた世界選手権で史上最低の13位に終わるなど、どん底にあった日本女子バレーにとって、187cmの大山選手と栗原選手は希望の光でした。

 

つかの間の栄光と挫折

翌2004年に行われたアテネ五輪最終予選でメグカナブームはピークを迎え、五輪切符を獲得した韓国戦は50%近い視聴率を叩きだし、世間はメグカナ率いる日本女子バレーに五輪でのメダル獲得を期待しました。

しかし、当時19歳だった大山選手と栗原選手を同時に起用することは、もろ刃の剣でした。

若さと高さが武器だった2人も、まだまだ荒削りだったためミスも多く、ディフェンス力に難があったため、リベロの成田選手と高橋みゆき選手が今では考えられない2枚キャッチ体制をこなすなど、他の選手の守備での負担が重くなっていました。

迎えたアテネ五輪本番ではこの弱点を突かれ日本の守備は崩壊。

栗原選手も世界の高い壁に跳ね返され平均決定率は30%ほど。日本は5位タイに終わりました。

 

その後栗原選手は成長を求め外国人監督のセリンジャー監督率いるパイオニアに移籍、規定により1年間Vリーグに出場できず、2005年の全日本も辞退。

しかし翌2005-2006年のVリーグではリーグ優勝に貢献、自身もMVP、ベスト6、サーブ賞を受賞するなど栗原選手にとって飛躍の年になりました。

そして2006年、2年ぶりに全日本に復帰…かと思われましたが、足の親指を骨折し全日本離脱を余儀なくされます。

結局その年は全日本に復帰できず、翌2007年に3年ぶりに全日本に復帰します。

 

日本のエースが見た高い壁

2007年に栗原選手が全日本に復帰すると、メディアは当然「帰ってきたエース、プリンセスメグ」などと盛り上げます。

しかし、ワールドグランプリ2007ではまさかの9位で予選敗退、秋のワールドカップでも過去最低タイの7位に終わるなど全日本にとって2007年は暗黒時代と呼ばれる1年になってしまいました。

 

実は当時、柳本監督の方針で栗原選手には高いオープントスばかり集められ、強豪国にはことごとくブロックされてしまいました。

レセプション免除のエースが点を取れないのでは必然的にチームも回りません。

当時の栗原選手のバレーファンの間での叩かれようは壮絶なものだったと記憶しています。

ただそこはエース栗原、翌2008年にはスパイクのスピードアップに取り組み、北京五輪の切符獲得に大きく貢献しました。

ワールドグランプリ2008では突如覚醒し、栗原選手はベストスコアラー賞を獲得し、名実ともに世界のエースの仲間入りを果たしました。

しかし、迎えた北京五輪。栗原選手の前には再び世界の高い壁が待ち受けていました。

いくら打っても決まらない。本人も後に「アテネの頃より世界との差は広がっていた」と語っています。

 

結果はアテネと同じ5位タイ。日本女子バレーは停滞期に入っていました。

 

見えてきた希望と更なる挫折

2009年、眞鍋監督が全日本監督に就任し、栗原選手は全日本副キャプテンに就任します。

この年栗原選手はそれまで免除されていたサーブレシーブに加わり、これまで木村選手がやっていたような移動攻撃やコンビに積極的に絡んでいくなど大きな成長を見せます。

しかし秋のワールドグランドチャンピオンズカップで膝を故障。

ここから長くつらい怪我との戦いが始まることに。

翌2010年、怪我から復帰した栗原選手は控えという形ながらも全日本の一員として32年ぶりの世界選手権銅メダル獲得に貢献します。

ただ、この時既に全日本のエースの座は木村沙織選手に奪われていました。

 

その冬再び足を故障、2011年は全日本でプレーする機会はありませんでした。

ロンドン五輪出場を諦めない栗原選手はロシアのカザンというチームに移籍、世界の高い壁に挑んで帰ってきました。

しかし結果はロンドン五輪代表落選。

長年エリート街道を歩いてきた栗原選手にとってバレー人生最大の挫折でした。

 

心機一転

ロンドン五輪で全日本が28年ぶりの銅メダルを獲得した歓喜の瞬間、栗原選手は岡山にいました。

岡山シーガルズに移籍し、心機一転成長を誓ったのです。

その年のVリーグで栗原選手はこれまで見せなかった平行トスやテクニカルなフェイント、ブロックを利用した攻撃など大きな成長を見せ、一時は外国人選手を抑えて総得点部門でトップに立つ活躍を見せました。

 

しかし、リーグ中にまた大きな怪我をし離脱を余儀なくされます。

翌年も万全な体調ではなく、不完全燃焼のまま岡山を脱退、そして移籍したのが現在所属している日立リヴァーレです。

日立で栗原選手は基本的にはスタメンではなく、若手選手が不調の時に立て直す役割を求められています。

そう、あの若かった栗原選手ももう大ベテランなのです。

20代の頃のようなしなやかなジャンプは見られませんが、高さを活かしブロックや全盛期を髣髴とさせる強力なジャンプサーブは健在。

現在日立のエース、渡邊選手が怪我で離脱しているため急きょレフトでスタメンを張っていますが、経験豊富なベテランとしてしっかり役割を果たしています。

 

 

数多くの栄光と挫折を味わってきた栗原恵選手。

普通なら引退を考えてもおかしくない怪我の連続にも、栗原選手は「今は体調がすごくいいんです。今引退してしまったら怪我をしていた時の自分に失礼」と語り、コートに立つことを決して諦めません。

何より、最近は試合中に笑顔を見せることが多く、心からバレーボールを愛しているのだなと感じます。

私はそんな栗原恵選手のことを1人のアスリートとして心から尊敬しています。

もう一度、栗原選手がVリーグの頂点に立てること、そしていつか最高の形で現役を引退できるようになることを祈っています。